節子さん、ありがとう
- ひろんた村
- 9月3日
- 読了時間: 4分

まさかこの日がこんなに早く来るとは。
母屋開所からずっといてくれた節子さんが、今月12日に永眠しました。3月にコロナと肺炎で入院。それでも5月のお誕生日は元気にニコニコお祝いしたのですが、6月、7月と入退院が続いて、最期は脳梗塞であっという間に去ってしまいました。節子さんのいない母屋を知らない私たちは、まだ実感が湧かないまま日々を過ごしています。

節子さんとの思い出は、数えきれません。とにかく才気あふれる人で、さらっと出てくる言葉が洒脱でした。機知に富んだ受け答えの数々に、笑いつつ感心することもしばしば。
「徹、ニューヨークに行ってきたのね」と、お風呂帰りの息子さんに声をかける。
「節子、90も過ぎたのに男連れなの」とは、褥瘡ケアをしてる時の呟き。
「ちょっとワシントン・カフェに行ってきます」と、母屋のトイレが突然オシャレな響きに。(みなさん、全部分かったでしょうか?)

節子さんも仕事人間で、最初の頃は特に、様々な作業を一緒にやりました。味噌つきの時、味噌玉をカメに投げつける(空気が入らないようにバシッと投げつける)姿は忘れられない。土間に座って芋の皮や椿の実を剥いたり。ツワの皮剥きも「手が覚えてるのよね」と、誰より上手。仕込んだ醤油は毎日撹拌しますが、その混ぜ係も節子さんが初代です。「これが私のリハビリなのよ」と、毎日足腰を踏ん張って混ぜてくれました。
一方で、歳を重ねてくると「もうバトンタッチ」とか、誕生日に食べたいものを聞いても「今まで腹一杯おいしいもん食べてきた」という具合に、欲も体の自由がきかなくなることも、すっと手放していくのが印象的でした。だから、介助を受けるのもとても上手です。恥や遠慮もなく(あるのが悪いわけではもちろんないですが)、でも「ありがとう」も忘れない。心身ともに老いていく姿を隠さず見せ、気持ちよく接する。介助者としても、いずれ老いていく身としても、大いに学ばせていただきました。
息子の徹さんは幼い頃から半身に麻痺があり、二人はずっと一緒でした。頑固で真面目で、でもお母さんの血を引いて冗談好きな徹さんがどう受け止めるのか心配でしたが、「仕方がないね」と呟いて、前を向いていくことにしたのだと言っています。
節子さん、お見事でした。長い間、本当にありがとう!

スタッフより
可愛い笑顔と歌声が恋しいです(MM)
節子さんとは1年3ヶ月の短い時間でした。いつもニコニコして、歌が大好きで、『りんごの歌』を「節子かわいや」に変えて歌ったりして、楽しかったですね。兄妹の名前を順に言ったりするので、私も覚えてしまいました。もう聴けないと思うと淋しいです。向こうでトメさん達と歌ったりされているでしょう。ゆっくり休んでください、素敵なお母さん。(YT)
『りんごの歌』や『東京のバスガール』の「発車オーライ!」の元気な声がまた聴きたいです。(HH)
可愛らしくて少女の心を持った節子さん。母屋での楽しい時間をありがとうございました。(TA)
いつも歌を歌っていた節子さん。もすこし一緒に過ごしたかったね。ありがとうございました。(YK)
節子さんはいつも笑顔で「おねえちゃん」と言ってくれていました。笑顔がとても素敵で可愛いおばあちゃんでした。たくさん歌を教えてくれてありがとうございました。(YA)
開設当初からいろんなお話しを聞かせて下さる節子さんでしたね。いつも笑顔の耐えない節子さん。節子さんの笑顔に何度救われた事でしょう。本当にありがとうございました。(KR)
いつもニコニコ笑顔が可愛い節子さん。ありがとうございました。(OF)
節子さんの入居日が母屋の開業日。母屋の歴史を二人で背負ってきた感じです。ご苦労様でした。安らかにお眠りください。(歌野敬)
「障がい者の母」という主にをうちに来てゆっくり下されたかなと思います。年ごとに穏やかにまーるくなられて最後は童女のように「セツコは何したらいい?」なんて言って、若いスタッフから「可愛い」と言われてました。私の亡き叔母と同じ昭和8年生まれ。もう少しご一緒したかったです。(歌野啓子)
お茶
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